今山

先日、延岡の伝統的建造物を訪ねる『まちあるき 延岡駅らへん』という企画に参加してきました。
延岡駅周辺の古い建物や歴史について、ガイドさんの説明を聞きながら歩いて回る企画でした。
 
今回は、その際に訪れた今山の一部について紹介したいと思います。延岡に住んでいれば一度は
行ったことがあると思いますが、今山と言えば『おだいっさん』です。

日本一の弘法大師(空海)銅像
1957年(昭和32)4月に第2世野中豪雄が世界平和と万民幸福を発願し、信徒の浄財1,700万円で完成
高さ18メートル(台座から11メートル)、重さ11トン、足の大きさ62文(約1.25m)
 
1839年(天保10年)に延岡の地で疾病が猛威を振るった際、疫病を鎮めるために地域の大師信徒たち
が、高野山金剛峰寺まで行き、弘法大師座像(現在の本尊)を勧請して、大師庵を作ったのが今山大
師の起こりだそうです。
ガイドさんの説明を聞いていると、「へ~なぜだ?」と思う事がありました。弘法大師空海と言えば
真言宗の開祖だが、現今山大師の野中玄雄住職は山下町にある天台宗善正寺の住職でもあり、「真言
宗の今山大師に天台宗の住職?」と思い後日ネットで調べてみました。
すると、今山大師は明治初期の『廃仏毀釈』で一度途絶したみたいです。廃仏毀釈とは明治元(1868)
年に薩長新政権が打ち出した『神仏分離令』によって仏教より神道を優位にすると明治政府が発令した
ために惹き起こされた、仏教施設への無差別な攻撃、破壊活動だそうです。
その後、大正時代に入り地域住民が今山の下にある天台宗善正寺の住職・円帰哲禅師に大師庵の管理を
依頼したところ、師は宗派を超えてこころよく引き受けられ今山大師を単立の寺として登記し、現在に
至っているみたいです。
宗派や派閥を超えて地域住民のためにこころよく引き受ける住職、それを認める天台宗もさすがです。
 
次に興味を引いたのは、日本一の石段です。
 
       南側 のぼり口                 日本一石段
                               材質 御影石 一本石々段


幅40cm、高さ18cm、延長3.6m 一本通しの御影石
 
何が日本一かというと、一本通しの御影石でできており、材質が日本一の石段だそうです。このサイズ
の御影石は、現在の価格で原石1本あたり40万円するとのことで、全部で136段あり、原石代だけで
5,440万円になります。この石段は、内藤藩時代の豪商 石見屋が寄進したものと言われています。
石見屋は今の北町に本拠があり、市役所裏の三福寺から東一帯は石見屋だったそうです。この石見屋
さんは小田家と言い、相当なお金持ちだったらしく1817年の全国長者番付で西前頭5枚目に登載され
たとか。所有山林が大分県の竹田や高鍋方面にもあり、3万ヘクタール(現在の延岡市の約3分の1の
面積)も所有してたそうです。しかし残念な事に石見屋さんは倒産してしまいます。倒産の大きな原因
は2つあり、1つは内藤藩に貸し出したお金が廃藩により返済されなかったこと。2つめは、西郷札。
西南戦争当時に西郷札といわれる紙幣が流通し、西郷軍は石見屋で米やミソ、醤油、酒を大量に支払い
を西郷札で払いましたが、西南戦争が終わればただの紙クズになり、大八車で何台も捨てたとか。今で
言う不良債権や自己破産みたいなものですかね。日本一高価な石段を寄進する豪商が倒産に追い込まれ
るとは、幾ら損したんでしょ。
 
西南戦争が絡む話がもう一つ。本社に居るときに良く耳にする城山の鐘は、内藤氏以前の領主有馬氏が
今山八幡宮に寄進した梵鐘で、現在は2代目、初代は内藤記念館に展示されているとの事です。その初代
梵鐘を西南戦争当時に薩摩軍が武器を作るために奪略しようとしたそうですが、当時の宮司が、機転を
利かせ、南側のぼり口にある池に沈めて隠したと言われています。その後城山に運ばれ、時報鐘として
初代、2代目共に市民に親しまれています。

今は底をコンクリートで覆っていますが、昔はもっと大きく深かったのかもしれません。
 
約1時間の今山滞在でしたが、初めて聞く話が多く、身近な歴史も意外と楽しめました。昼食を挟んで
3時間半程度歩きましたが、その間話し続けるガイドさんの知識の多さにも感心しました。
 
土木部 N

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